55年前の今日、日の丸が。

2019年 10月21日 - 日常

今から55年前の今日、昭和39年10月21日、東京オリンピックのマラソン大会。
裸足のランナーとして有名なエチオピアのアベベ選手に続き、国立競技場に入って来たのは、日本国民の期待にこたえ、力走する円谷幸吉選手でした。
ラジオやテレビのアナウンサーの声が次第に大きくなり、日本中が、その放送に釘付けとなりました。
後方から追い上げるイギリスのヒートリー選手との、今も語り継がれるデッドヒートの末、ついには抜かれたものの堂々たる第3位。
陸上競技日本唯一のメダルを手にすることとなった円谷選手は、沸き起こる大きな歓声を背に、表彰台へと登ったのです。

円谷選手は昭和15年、福島県須賀川市に生まれました。
県立須賀川高校2年の夏、福島縦断駅伝の代走を務めた際に、区間新記録を出したことを機に、本格的な陸上競技への道を歩み始めます。
高校卒業後も円谷選手は、常に走ることを楽しんでいましたが、時には苦しい時もありました。
そんな時、 円谷選手は「忍 耐」の二文字を胸 に、その苦しさを乗り越え、自分の力にして結果を出してきたのです。
そして数々の大会で、世界記録や日本記録を塗り替え、ついに昭和 39年8月のオリンピック候補選手記録会では、10000mで世界最高記録を出した後、マラソンのオリンピック代表選手選考会に臨み、2位の成績を修め、オリンピックヘの出場を決めました。
そして迎えた本番での大活躍が、劇的なデッドヒートの場面とともに、今日まで語り継がれているのです。
いま須賀川市は、今回の台風19号によって犠牲者2名という悲しい出来事がありました。
「忍耐」の二文字を胸に、復興にむけて一歩ずつ前進しましょう。

今夜から大雨、被災地は二次被害に注意。  法華坊主 joe

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