当山境内には、石碑を安置しています。
寛保3年~天保3年(1743~1832)まで、この周辺は「境川」を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領でした。そのため、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していました。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかったといいます。
幕府、二本松藩のどちらかが許可したかなどの経緯は不明ですが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ヶ岡、天明根(松川)、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い、石橋が造られました。住民はこれを大総喜び、橋供養を建立したと伝えられていいます。
橋供養とは、明治期頃までの庶民の習わしで橋を新たに架け替えた時に、通行人の安全や橋の長久を祈り建てられました。自然石をそのまま使ったものや角柱型などがあります。
この橋供養は高さ約140センチ、幅約40センチの角柱型で、現存する碑の中でもかなり大きく、歴史的に貴重な文化財です。
立正院の地名(字名)にもなっている信夫隠(しのぶかくし)の由来について記した石碑があります。
隠母日夜留 おもひやる
居巳露之意苦鳴 こころのおくを
目浪作偲止 もらさしと
旨迺父可絇次破 しのふかくしは
衣手何當物跡香 そでかたもとか
和歌の大意
思ひ遣る 心の奥をもらさじと 忍ぶ隠し(信夫隠)は袖か袂か
(思い慕う心をひとり胸の中にしまい隠し置くことの切なさを地名信夫隠にかけて詠いあげた)
慶応二年丙寅に建立(碑文の落款に見ることができる)され、今もなお当時を偲ぶ文化財です。