花見の変遷。

2021年 03月27日 - 日常

連日の暖かさも手伝って、一気にサクラが開花しています。
記録に残る初の「花見」は、812年3月28日に神泉苑(京都市中京区)で行なわれた嵯峨天皇主催の「花宴の節」だそうです 。
その前年の811年、嵯峨天皇御幸のおり、地主神社(京都市東山区清水)に植えられていたサクラに魅了され、二度三度と車を引き返しては、見事に咲くサクラを眺めたといいます。
それ以降、嵯峨天皇は毎年、地主神社から桜を献上させて、サクラの花見を行ったそうです。
ちなみに、嵯峨天皇が魅了されたサクラは、その故事から「御車返(みぐるまがえ)しの桜-地主桜-」と呼ばれ、一樹に八重と一重の花が同時に咲く珍種で、日本ではその1本が現存するのみということです。

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嵯峨天皇主催の花見の会をきっかけに、貴族の間でサクラの花見が広まっていきました。
安土桃山時代に入ると武家階級にも浸透し、徐々に盛大に行われるようになったといいます。
特に、有名なのが豊臣秀吉公の「吉野の花見」や「醍醐の花見」です。
594年に開かれた「吉野の花見」は、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗などそうそうたる武将をはじめ、茶人、連歌師など総勢5000人を引き連れて吉水院(吉水神社)を本陣として行われました。
実は、最初の3日間は雨が降り続き、秀吉公をたいそう苛立たせたそうです。
しかし、吉野山の僧侶たちが全山をあげて晴天祈願をしたところ雨が止み、無事、歌の会や茶の会、御能の会などを開いて盛大な花見の宴が開かれたそうです。
さらに、1598年には「醍醐の花見」が開かれました。
この花見のために醍醐山に植樹されたサクラは700本、招待された1300人の女性たちには1人3着の着物が与えられ、2回の衣装替えが命じられていたそうです。
また、全国から献上された銘酒や銘菓なども振る舞われ、これを機に花見をしながら宴を楽しむというスタイルに変わっていったそうです。
そして、江戸時代になり「花見」が庶民の春の行楽となり、現在のようにサクラを愛でながら花見弁当を開き、お酒を飲んで楽しんだといいます。
コロナ禍にある今年の花見は、TVや新聞に載るサクラを観て「一人花見」を楽しんではいかがでしょうか。

 

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